居場所を得ることからアイデンティティをもつことvol2-26-07.pdf

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Unformatted text preview: 64 居場所を得ることから自らのアイデンティティをもつこと 小沢 一仁* Possibility that having own identity finding ' Place' in society Without religion and exclusion Kazuhito OZAWA* Ethnic, inter-cultural, ideological and religious conflicts cause identity crises. On identity crises, those who have deep conflicts can not choose own "social prototype(Erikson,1959)". Erikson pointed that social prototype tells people what they are, who they are, how they live and their identity. Social prototype as to race, culture, ideology, and religion affects them to achieve their prominent identity. However, these social prototypes bring them to discrimination, war and so on. This study discusses that possibility that they achieve their own identity, not by using that social prototype, but by finding their own 'Place' in society. 1. アイデンティティが問題となる、アイ デンティティ危機とは何が問題とな っているのか 中での悩みの様子を推測して記述してみると ―――みんなが行くから、とりあえず、高校へ行 った。高校では、勉強がいやで成績では苦労したが、 それなりに楽しかった。それなりに、勉強して、自 (1) 日常生活の中に、そこでの悩みや葛藤には アイデンティティの問題は現れるか? 分の成績で行ける大学へ合格した。大学では、そこ アイデンティティとは、どのような状況で、どの って、就職活動が始まると、大変だった。何社か苦 ように、意識の中で問題になるのか。 アイデンティティという概念は、エリクソンが提 そこ勉強して単位を取って、遊んだ。3,4年にな 労して受け、内定をもらったときはうれしかった。 会社に入ってみると、給料をもらう大変さに驚いた。 出して以来(Erikson,1959)、様々な領域に広まってい 今も、上司や同僚の中でなんとか仕事をしている。 った。しかし、あらゆる場面や状況においても、ア ――――と、このような、高校から大学そして就職 イデンティティという言葉を用いることができる へと、移り変わる状況の変化における悩み、葛藤に ものではない。まず、アイデンティティが、いかな おいて、ここに、アイデンティティの問題は、ある る状況や場面で問題になるかを検討していく。 だろうか。ここだけにはないと言える。正確に言う そこで、日常生活において、アイデンティティが と、ここだけでは、アイデンティティの問題は、表 問題となるかをみていくために、日常生活における 面には現れていない。つまり、日常生活の中で、高 悩みや葛藤の生じる状況を考えてみよう。 校から、大学へ、そして社会へと、生きていく主た 例えば、学校に在学している間は勉強、社会の中 る状況が変化することを示すだけでは、そこには、 で働いていれば仕事、家庭においては家事や育児等、 アイデンティティの問題は生じてこず、表面化して 主たる活動の対象がある。そして、このような主た いない。 る活動の対象が、学校の勉強から社会に出てからの だからといって、日常生活が、陳腐で無意味なも 仕事及び家事等と移り変わっていく中で、その選択 の、味気ないもの、価値のないもの、拒絶すべきも に悩んだり葛藤することがある。 のと指摘しようとしているのではない。ここで示し 一般的な、学校の進学そして社会への就職という * 東京工芸大学工学部基礎教養研究センター助教授 2003 年 9 月 17 日 受理 たいことは、日常生活においては、アイデンティテ 居場所を得ることから自らのアイデンティテをもつこと ィが問題になることはない、ということである。 次に、日常生活においては、人間関係の問題にお 65 う。フランケンシュタイン博士によって、造られた モンスターは、次のように、叫ぶ。 いて、悩みや葛藤が生じることがある。例えば、― ――友人関係の中で、いざこざがあり、自分の言っ "...I was unformed in mind; I was dependent on none, ていることが誤解されたり、理解されずに、仲のい and related to none. …there was none to lament my い親友に相談したりして、話し合ったりして何とか annihilation. My person was hideous and my stature して解決できた。――――と、このようなに中に、 gigantic; What did this mean? Who was I? What was I? アイデンティティの問題が現れているだろうか。 Whence did I come? What was my destination? These 家庭において、大学において、職場において、人 は、対人関係のいざこざに悩まされるものである。 そこでは、対立があり、和解があり、不和があり、 questions continually recurred, but I was unable to solve them." 「私の気持ちは戸惑い、つかみきれない。という 喧嘩があり、融和があり、妥協があり、様々な問題 のも、私は何にも頼るものがない、何にもつながっ がある。この対人関係の問題は、親子、友人、異性、 ているものがない。この悲しみは消えることがない。 夫婦、など様々な、対があり、どれも、解決に難し 俺という人間は隠すべきものであり、俺の身体は巨 い問題である。しかし、対人関係の問題においても、 大だ。これはいったいどういうことなんだ?俺は誰 それだけでは、アイデンティティの問題は、生じて だ?俺は何者だ?俺はどこから来たのか?俺の行 こない。 き着く先は何だ?このような問いが繰り返し私の 日常生活の中で、平凡さの中に埋没することもあ れば、悩む、葛藤することもある。そうして、日々 生きているのであるが、その状態だけでは、アイデ ンティティの問題は、あからさまに、表に現れ、問 心にわいてきた。だが、私にはそれに答えることは できなかった。 」 Mary Shelly "Frankenstein" 1831 Reprinted 1996 W.W.NORTON & COMPANY P86. 題とされるものではない。これは、日常生活、そし て、そこに生じる悩みや葛藤を、先に示したように これは、まさに、アイデンティティの問題が浮き 軽んじるものではない。しかし、そこには、アイデ 彫りとなっており、アイデンティティ危機の叫びで ンティティの問題は、現れていないということを指 あるといえる(小沢,2000)。フランケンシュタイン博 摘しているのである。 士に造られた人造人間であるモンスターは、その身 体に故に他者から受け入れられることがない。俺は (2) アイデンティティの問題が現れた、アイデ ンティティ危機の例をみていくと エリクソンは、次のように述べている。 誰だ?俺は何だ?という問いは、まさにアイデンテ ィティ危機を示すものである。ここでは、自分が他 者から受け入れられないという葛藤を通して、自分 自身が問題となっている。このような、自分は何か 私にとって、アイデンティティというのは、激し という問いかけは、自分が自分であることが問題と い混迷とともに権力闘争にも関係をもつものだ。そ なっており、つまり、主観である意識している自分 れは生死にかかわることがらであって、どんな種類 が、こうして生きている自分のことを納得して受け の素敵アイデンティティをもちたいかなどとい 入れることができないことが問題となっているの う意識的選択の問題では絶対にない。私にとって、 である。 アイデンティティとはその人の中の最善のものが それによって生きるものの謂であり、それの喪失は その人々の人間性を減ずるものでさえある。 さらに、次のような、アイデンティティの問題も 見ていこう。 (Erikson, 1973 近藤邦夫 訳 p165) 「俺は何者だ?」 では、アイデンティティの問題が現れている具体 例を、小説「フランケンシュタイン」から見ていこ 「えっ?」 「俺は何者だ?」 66 東京工芸大学工学部紀要 Vol. 26 No.2(2003) 桜井は少し迷った末に、答えた。 おうと試みる。つまり、他者とは、自分を拒否する 「・・・・・・・在日韓国人」 存在でもあるが、自分の承認を求める存在でもある 僕は立ち上がり、胸像の台座の部分を思い切り三 ということである。 回蹴ったあと、桜井に向かって言った。 「・・・・・・ 言っとくけどな、俺は<在日>でも、韓国人でも、 朝鮮人でも、モンゴロイドでもねえんだ。俺を狭い (3) アイデンティティ危機において、心の中に 何が起こっているのか このような例から見ていくと、アイデンティティ ところに押し込めるのはやめてくれ。俺は俺なんだ。 危機においては、いかなることが問題となり、いか いや、俺は俺であることも嫌なんだよ。俺は俺であ なる葛藤が生じているのか。アイデンティティが問 ることからも解放されたいんだ。俺は俺であること 題となり、アイデンティティ危機が生じるとき、そ を忘れさせてくれるものを探して、どこでも行って こでは何が起こり、どんな葛藤が生じているのかを やるぞ。 ・・・・・・・」 見ていこう。 金城一紀「GO!」2000 講談社文庫 P245246. アイデンティティの問題とは、まず、自分が自分 を対象として見つめることが、前提としてある。つ まり、日常生活を送る上では、問題とする必要のな 民族、人種などによる差別と偏見は、それを受け い、こうして生きている自分のことを問題とし、逃 る側において、アイデンティティの問題を引き起こ れようのない、このこうして生きている自分を、い す。この主人公は、こうして生きている自分を、差 かにして納得して受け入れるかが、問題となってい 別と偏見によって、否定されるという体験を通して、 るのである。 その否定される自分を、受け入れることができない という葛藤を叫んでいる。 そこで、第一に、ある状況において他者から自分 が否定されることが生じている。それは、差別であ ったり、偏見であったり、期待にそわなかったりと さらに、次の例は、やや表現形態としての切実さ は低いが、他者への承認を求めるという意味で、見 てみよう。 いうものがある。人種、民族等の、差別や偏見は他 者への否定を引き起こす。 第二に、その否定された自分に対して、 「いや自 分は、そんな自分ではない。 」と、否定された自分 「−おふくろさんはおれの顔なんか、見たくない を、自分が否定することが生じる。そうしてこそ、 っていうかもしれない・・・・・でも、おれはこの顔を アイデンティティ危機となる。つまり、ある状況に 見てもらおう。おふくろさんはおれをなぐるかもし おける、否定された自分を、自分が否定し、納得し れない。・・・・・でも、おれはよけないでおこう。お て受け入れない。つまり、 「自分は、そんな自分で れは、やっぱりおふくろさんの子だということを、 はない。 」「私は∼ではない。」という思いをもつこ わかってもらおう。そして、やっぱり、おれがおれ とである。 であることも、わかってもらおう!−」 第三に、では、自分はどんな自分なのか、人間な のかと答えることはできない。つまり、否定された 山中恒 「ぼくがぼくであること」1973 角川文 庫版 1975 P312. 自分を納得して受け入れられないのであるが、では、 どんな自分を納得できるのかというとそれができ ないのである。そこで、「私は、どんな自分なの この児童小説の主人公の秀一は、母親から認めら か?」「私は誰だ?」「自分はいったいどんな人間 れないことをきっかけに、ひょんなことから家出し なのか?」という問いが、そこで、発せられるので てしまう。そして、一夏、夏美ちゃんとおじいさん ある。 の家で働くことを通して、自分に対する根源的な自 第四に、エリクソンが W.ジェイムスの手紙の引 信を得ていく。その「ぼくがぼくであること」とい 用でアイデンティティ(の感覚)を得た例として、 う思いを、自分を拒否した母親にも、わかってもら 挙げていた、 「これが本当の自分だ。 (This is the real 居場所を得ることから自らのアイデンティティをもつこと 67 me.) 」というように(Erikson,1959)、自分が自分であ いるのかを明らかにすることが、現象学による適用 ると納得して思えることを目指しているのである。 である。 第五に、他者からの承認への渇望である。あたら アイデンティティ危機から達成へのプロセスを、 なる自分を自分自身でも納得したいという渇望と 他者からの拒否をきっかけにした、自己否定→自己 ともに、その自分を他者からも承認してもらいたい 探求→自己肯定、そして他者からの承認を求めると という思いがある。 いう流れとして捉えると、このような自己否定、自 つまり、アイデンティティの問題が生じること、 己探求、自己肯定というそれぞれ明確に感じられる 言い換えるとアイデンティティ危機に陥ることと 実感、言い換えれば、確信が生じる条件は何かを明 は、他者による自己否定、そして、自分による自己 らかにすることが、竹田による現象学的方法の適用 否定、さらに、新たなる自己の渇望、しかし、見え ということができる。つまり、対象を突き詰めてそ だし得ない葛藤、さらに、自分を納得して受け入れ の根底にあるものを明らかにすることと理解される。 るという自己肯定、続いて、他者による承認への渇 望という一連の葛藤のプロセスがあることが考え られる。 筆者が以前示した模式(小沢,2000)をもとにして 示せば、以下のようになる。 (2) 自分が自分であることの底にあるものとは 筆者は、アイデンティティを、 「自分が自分であ ること」 、 「私が私であること」と捉えているのであ るが、このことをひとつひとつ解きほぐしていって みる。 <他者からの拒否> ↓ そこで、まず「自分が自分であること」において、 前者の自分を考える。さらに、後者の自分を考える。 <自己否定> そして、前者と後者の自分をイコールで結ぶとは、 自分 ≠ 自分・・・・ 「こんな自分は嫌だ。 」 いかなることかを考える。 ↓ <自己探> 自分 = ? ・・・・ 「自分は一体誰か?」 ↓ ①見つめる自分の背景にある、自分を納得して受け 入れたいという思い まず、前者の自分とは、主観において意識として <自己肯定> 自分を見つめる自分である。見つめる自分とは、対 自分 = 自分・・・・ 「これが本当の自分だ。 」 象化していかなるものかとは言いにくいものがあ ↓ <他者からの承認> るが、自分において、見つめる自分と見つめられる 自分が分割されることから、アイデンティティの問 題は生じるのである。 図1.アイデンティティ危機のプロセス その中で、見つめる自分とは、主観とか、意識と しか言い様のないものである。しかし、この主観と しての自分は、いかなる根底を持っているかという 2.アイデンティティ危機のプロセスに 関わるダイナミズムについての解明 と、自分への愛情、自分自身への肯定への思い、こ うして生きている人間である自分を納得して受け 入れたいという思い、渇望ではないか。つまり、こ (1) この問題への現象学的アプローチ このような、アイデンティティ危機から達成への プロセスに対して、現象学的アプローチを、行って うして生きている自分に対する、愛しさであり、慈 しみであり、大切なものであり、何ものにも代え難 いものであるという思いがあるといえる。 みるとどうなるか。竹田(1989)による現象学とは、 自分が自分であることを、納得したい、納得して 「確信成立の条件」を明らかにすることであるとさ 受け入れていきたい、という思いこそ、見つめる自 れる。この見方を適用すると、自分が自分でないと 分の根底にあるといえる。 いう実感、言い換えると確信は、いかにして生じて 他者から否定されて、その通りであると思えない、 68 東京工芸大学工学部紀要 Vol. 26 No.2(2003) 自分自身を肯定したいという渇望がある。他者から さらに、後者のこうして生きている自分を宿命、縁、 の差別や偏見を受け、他者から自己否定されても、 実存として捉えた場合、アイデンティティとはいか この受けた否定に対し、自分では納得いかない。他 なる人間においても問題になりえるといえる。 者から否定を受けた自分自身を肯定するわけには 例えば、アイデンティティ、つまり、自分が自分 いかない、納得するわけにはいかない。他者からお であること、自分がこうして生きている人間である まえはダメだと否定された。それで、そうだ、おれ 自分であることの、宿命、縁、さらには、これらに はダメだと肯定はしない。そこには、自分を大切に、 関わる、生死の悲哀を、示したものに、一遍による 自分を納得して受け入れたいという思いがあるか 以下の言葉がある。 らこそ、他者からの否定に、うなずけないのである。 「六道輪廻の間には、ともなう人もなかりけり ②後者の自分における、宿命、縁、実存 では、後者の自分とはいかなるものか。自分がど 独りむまれて独り死す 生死の道こそかなしけれ」和讃 百利口語 うしてこのような人間として産まれ生きているか。 後者の自分、つまり、こうして生きている自分とい う人間であること、これは、宿命としか言いようが 一遍上人全集 橘俊道・梅谷繁樹編 1989 春秋 社 p206. なく、日本語で言う縁としか言いようがないことで ある。後から述べるが、向こうの世界、この世以外 ここで示さていることは、誕生と死という間、 の世界を想定すれば、なぜ自分はこういう人間とし 生きること自体にまつわる、孤独というものと、六 ての自分として産まれ生きているのかという問い 道輪廻という、向こうの世界まで想定したものでは に答えることができる。しかし、この世に限定して あるが、どこまで行っても、自分がこうして生きて 考えれば、なぜ自分は自分なのかという問いに答え いる自分であるということから、逃れ得ないという ることはできない。つまり、宿命、縁、実存としか ことである。筆者は後に見るように、向こうの世界 言いようのない。 を想定することなしにアイデンティティをこの世 このように、筆者は、こうして生きている自分、 の世界において限定的に語っていこうとするもの 言い換えると、こうして生きている人間としての自 であるが、この世に限定してもなお、自分がこうし 分が生きていることを、宿命であり、縁である、実 て生きていている自分であることは、宿命、縁、実 存と呼んだ(小沢,2002b)。つまり、この時代に、こ 存と呼ぶべきことである。 の社会に、この国に、この地域に、この親のもと、 この家族とともに、この身体を持って、男/女とし ③自分が自分であることを納得して受け入れるた て、様々な特徴を持って、産まれ、今の年齢にまで めの基準 生きている人間。このこうして生きている自分とは、 溝上(2002a)は、エリクソン以前における哲学の この世の世界で限定して語れば、選択したものでは 歴史の中で、アイデンティティの問題がいかに議論 ない。宿命ともいうべき、縁ともいうべきものであ されてきているかを振り返っている。このようなア る。そして、誕生し限りある人生を生きていること、 イデンティティを哲学的領域にまで広げて根本的 つまり、誕生から死へのみちのりを歩んでいること に問い直していこうとする姿勢はエリクソンの流 もまた、宿命ともいうべきものである。 れを受けてアイデンティティ研究では行われてこ アイデンティティとは、個の独立、主体性の確立、 なかったことであり、アイデンティティとは何かを 個人が他者との違いの主張など、西欧的な個人観を 問い直す意義がある。この議論を通して、溝上はア 背景に、エリクソンが提示したものと考えられるし、 イデンティティの問題とは、「同定確認(identify)の そのように受け取られるものである。そこで、日本 揺らぎによって、同一と差異の『あいだ』を行った においても、アイデンティティが問題になるのか、 り来たり」する「主体的な同定確認(identify)の行為」 という疑問が発せられる。日本においても、差別や であるとしている(P22.)。 偏見等様々な他者からの拒絶が生じることがある。 アイデンティティにおいて、問題なのは、これと 69 居場所を得ることから自らのアイデンティティをもつこと あれが、別々のものか、同じものか、例えば、これ し付ける、基準自体を受け入れられないからである。 とあれは、同じ椅子であるかどうか、同じ机である 他者の押し付ける基準を、自分がこうして生きてい かである。しかし、ひとりの人間において、アイデ る自分であることの基準として、受け入れられない ンティティが問題になり、エリクソンの提示したア からである。そこで、自分はこのよう他者から否 イデンティティで問題となっているのは、本来問う 定された自分ではない(自分≠自分)と思う。さら べきもない、自分が自分であることを問題としてい に、では、いったい自分はいかなる基準において自 る。つまり、あそこにあるものとここにあるものが、 分を肯定し、納得して受け入れるのか。それがわか 同じコップであるかが、問題となっているのではな らないので、自分が自分であることがわからない く、ここにあるコップ(ここにいる自分)が、ここ (自分=?)という問いが発せられるのである。 にあるコップである(ここにいる自分)かどうかを つまり、アイデンティティ危機とは、自分が自分 問題にしているのである。コップが自ら自分を問う であることの基準を、疑い、問い直すことによって、 ことはないが、人間においては、自分が自分を問う 自分が自分であることの基準を見失うことである。 ことはあり得る。そこでは、問うものと問われるも このように、アイデンティティ危機とは、いわゆる のを、区別されなければならない。この点から、筆 底が抜けた状態であるといえる。自分を捉える基準、 者は、前者の自分を、主観としての意識としての自 受け入れる基準がわからなくなってしまった状態 分とし、後者の自分をこうして生きている人間とし である。 ての自分としたのである。 この点で、本来ひとつのものである、自分という 人間において、自分が自分であることが問題になる このように、自分がこうして生きている自分であ ることの根底にあるものを図式化すると以下のよ うになる。 ということは、自分=自分、のように、 「である」 、 そして、「=イコール」で示したものは、「同じこ と」を意味しているのではないといえる。では、何 ・自 分 が 自 分 で あ る こ と を示しているかというと、自分が自分を納得して受 け入れることができることと考えることができる。 自 分 = 自 分 そして、そこで、いかなる基準によって、自分が ↓ ↓ ↓ こうして生きている自分であることを納得して受 納得して受け 納得し受け 宿命、縁、実存 け入れるかということが問題となる。 入れたい思い 入れる基準 としての存在 自分が自分であることは、当たり前のことであり、 疑うまでもないことである。しかし、時に、こうし 図2.自分が自分であることの根底にあるもの て生きている自分のことに対して、違和感が生じる ことがある。こんな自分は自分ではない、では、い ったいどんな自分なら自分は自分のことを受け入 れられるのか。 3. 自分が自分であることを納得して受 け入れる基準を考える 自分が自分であることに違和感を感じる、という ことは、自分が自分であるという当たり前のことを、 納得して受け入れるには、基準があるということが 浮かび上がってくるのである。 他者が自分を否定する、差別や偏見というものは、 (1) エリクソンの社会的プロトタイプと心理社 会的価値観という基準 Erikson(1959)は、民族的地域、歴史的時期、経済 的追求を共有する人間は、善悪の共有するイメージ 他者から押し付けられた、自分が自分であることの によって、生きる方向性を示されている、導かれて 基準である。誰かがその人であることを、規定する、 いると指摘し、この善悪についての共有するイメー 準として、様々なものがある。自分がその他者か ジを、社会的プロトタイプ(social prototype)と言 らの否定を納得できないのは、自己否定されたから い表している。 ではあるが、さらに、その根底に、他者が自分に押 そして、エリクソンは、アイデンティティ危機に 70 東京工芸大学工学部紀要 Vol. 26 No.2(2003) 陥った事例を分析する中で、そこには、社会的プロ ィ危機つまり、自分が自分であることの基準への問 トタイプについての葛藤があることを示している い直しに至るみちすじをたどっていってみる。ここ (Erikson,1959)。例えば、アメリカにおけるユダヤ系 では、やや大まかなアウトラインをたどるというや 移民の青年における、善を示すドイツ人・対・悪を や乱暴な論の進め方をしていくことを了承いただ 示すユダヤ人という社会的プロトタイプに対して、 きたい。 自分をどう位置づけたらいいか、わからず、アイデ 人生のスタートしての誕生時は、100%養育者 ンティティ危機に陥った事例を挙げている。つまり、 (親)に生存を依存している状態である。養育者の 社会的プロトタイプにおいて悪とされた側にとっ 世話なしに、乳児は生きていくことができない。つ ては、他者からの自己否定となり、アイデンティテ まり、養育者の世話こそが、自分が生きていくこと ィ危機のきっかけとなる。 を握っている。ボールビーのいうアタッチメントと この社会的プロトタイプは、善とされる側にとっ ては、自分が自分であることの基準となっており、 は、養育者という自分の命を握る他者との間の命綱 のことであるといえる。 自己を肯定する基準となっているが、悪とされた側 つまり、この人生の始まりにおいては、養育者に においては、自己を否定される基準、見方、枠組み いかに世話をされ、いかに愛されるかに、自分の生 の押し付けとなっているのである。 存がかかっているといえる。やや強引に、この状態 筆者は、この社会的プロトタイプという概念を、 において、自分が自分であることを納得して受け入 さらに、エリクソンの心理社会的という用語を用い れる基準は何かと敢えて言えば、養育者の愛情を自 て、個人が生きる上での大切なことを示していると 分が得ることである。つまり、養育者からの愛情を いう意味から、無藤(1979)による価値観の提示にヒ 得ることができなければ、自分が自分であることを ントを得て、心理社会的価値観と言い換えた(小 納得して受け入れることはできないだろう。 沢,2002a)。この社会的プロトタイプも、個人の主 このように、養育者からいかに愛されるかは、誕 観的視点で捉えた心理社会的価値観も、自分が自分 生においても、乳児から幼児にとっても生存に関わ であることを納得して受け入れる基準を示すもの る問題であり、例えば、フロイトのエディプス・コ と考えられる。 ンプレックスは、母親、父親の双方からいかに愛さ 差別、偏見に見られるように、宗教、人種などに れるかが問題となっているといえる。さらに、アド ついての社会的プロトタイプを背景にして、他者か ラーによる、出席順位ごとの性格特徴の提言におい ら否定されることは、アイデンティティ危機を引き ても、きょうだいをライバルとしながら、いかに親 起こすのは、自分が自分であることの基準に関わる から愛情を自分の方へ引き寄せるかが、問題にな 問題であるからである。この問題については後述す っているといえる。 る。 逆に言えば、成長していく過程で、親からの愛情 を得ることが生きていく上で必要ではなくなると、 (2)人生のスタートしての誕生から辿ると フロイトのエディプス・コンプレックスで言えば、 では、発達上の問題について、アイデンティティ 異性の親に愛情を感じ同姓の親に嫉妬することも 危機がいかに生じるかを、見ていこう。エリクソン なくなり、アドラーのきょうだい関係で言えば、き は、アイデンティティ概念を臨床概念から、発達概 ょうだいゲンカをすることもなくなるといえる。 念へと転用したことを述べている(Erikson,1959)。そ サリバン、ブロスが主張するように、成長してい こで、エリクソンの示す人生のスタート、ライフサ く過程で、親子関係の次に、友人関係が重要となっ イクルの始めの心理社会的危機からさかのぼって、 ていき、徐々に、親からの自立が進んでいく。 青年期のアイデンティティ危機に至るまでを考え ていく。 親からの依存の割合が減少していくとは、いかな ることか。誕生時においては、生存することは養育 エリクソンは人生はじめの心理社会的危機を、基 者である親の愛情をいかに得るかということにか 本的信頼対基本的不信の葛藤と呼んでいる かっている状態であった。つまり、 「親の愛情を得 (Erikson,1959)。ここから、青年期のアイデンティテ ることによって、生存することができる。 」 「親の愛 居場所を得ることから自らのアイデンティティをもつこと 71 情を得るために生きる。 」という状態である。そこ 生じることによって、アイデンティティ危機が生じ から、自分でできることが増えていくことから、親 ることがある。それは、自分が何をして生きていく に依存する割合が減少していき、自分の生存を自分 かということを、自分自身で問い直すことによって、 の力で得ていくことができるようになっていく。つ 自分が生きていくことを支えてきた基準を、もう一 まり、親の愛情を得ることによって生きていたが、 度、確かめ直し、問い直すということである。これ 自分の力で自分の生存を獲得することができるよ が、発達上で、青年期において、アイデンティティ うになる。 危機が生じる場合である。 子ども時代の自分から、大人として成長していく 子どもから大人になっていく過程の中での、自分 過程の中で、親の愛情を得るために親の期待を引き が自分であることを納得して受け入れることがで 受けることは、生存のために必要なことであった。 きる基準を模索することは、例えば、自分がどんな 溝上(2002b)が、マーシャの提示したアイデンティ 大人になっていくのか、どんな男であり女になって ティ・ステイタスの親の期待に疑いを持たずに自分 いくのか、社会の中で何をして生きていくのか、と の希望としているF地位について議論していたよ いう葛藤にみることができる。つまり、自分が、こ うに、F地位であることは、本人にとって問題が生 うして社会の中で大人として生きている自分であ じなければ、端からよくないとか、悪いとか言う筋 ることを納得して受け入れることができる基準は、 合いはない。つまり、親の期待を引き受けてそれを 何かという問題である。 自分の希望にするということがスムーズに個人に おいて行われていれば何も問題はない。 例えば、職業選択において、自分が大人として生 きていく上で何をしていったらいいのかを迷うの 中には、大人として社会の中で生きていこうとす は、自分が自分であること、自分がこの人生を歩ん る過程の中で、親とは別の他者から自分が拒否され でいる自分のことを、いかなる職業につくことが納 たり、親の期待とは異なった価値観に接したり、こ 得して受け入れられるものなのかという葛藤があ れまでの自分では通用せず他者からの承認が受け ると考えられる。 入れられなかったりしたときに、親の期待を引き受 さらに、このような職業選択や、大人としての男 けてもった基準を、根本的に疑い、問い直すことが 性として/女性としての自分を納得して受け入れる 生じる。 基準を探すことは、簡単ではない。よって、自分が 自分は、これまでのように親の愛情を受けること 自分であることの基準が見つからないまま、探した が第一の目的として生きてきた、自分ではない。親 まま生きるしかない場合もある。この際に、エリク の愛情を受けることは私の生存にとってもはや必 ソンのいう役割実験(Erikson,1959)が必要となる。 要なことではない。よって、親の期待を受け入れる つまり、役割実験の意味とは、新たな基準を探すこ ことは、その基準を、自分が自分であることを納得 とでもあり、さらに、新たな基準を探す自分につい して受け入れるための基準としていいかどうかは、 て、より根底的な自分についての自信を得るための 問い直し確認する必要が出てくる。では、何のため 活動であると考えられる。つまり、より根底的な自 に生きていくのか、何を目指して生きていくのか、 分が自分であることの基準を、獲得していくのであ 指針としての親の愛情はもう必要のないものとな るといえる。 ってしまった。では、それに変わるものは何なのか。 または、親の愛情は必要のないものとなってしまっ たが、親の期待とは果たしていかにして自分にとっ て意味のあるものなのかを、これまでは無自覚に受 4. 宗教の問題とこの世界に限定すると いう意味での居場所の問題 け入れてきたが、ここでいかなる意味があるのかを 自分自身で問い直すのである。 成長する中で、自分の生存に関わるものが、親の (1) 向こうの世界を想定しての答え方−宗教− 西平直(1993)は、 「シュタイナーから見れば、エリ 愛情を得ていくことから、いかに転換していくか。 クソンはずいぶん無理をしたものである。アイデン この転換の中で、自分によっての疑いや問い直しが ティティの根拠を切り捨ててしまった地平にアイ 72 東京工芸大学工学部紀要 Vol. 26 No.2(2003) デンティティを求め、サイクルの持つ時間的な広が 生きているという意味について、より深く理解でき りを拒否した地平にライフサイクルを求めてい る可能性があると考えられる。 る。 」と述べており、アイデンティティとはこのよ つまり、この世に限定して、この世の範囲内で、 うに、向こうの世界、あの世までを含めてしまう可 自分が生きていることの意味、アイデンティティで 能性、危険性をもつ概念である(小沢,2002b)。なぜ 言えば、自分がこうして生きている自分であること なら、向こうの世界を設定し、向こうの世界から語 の納得感を、いかにしてくみとってくるか、という ることができれば、自分がこうして生きている自分 問題である。向こうの世界を想定しないで、こうい であるのはなぜか?という問いの答えを、出すこと う人間として生きている自分の宿命についての納 ができるからである。 得感を、得ることができるだろうか、という問題で 自分がこうして生きている自分であることは、宿 ある。この問題は、いかなる向こうの世界からの言 命や縁という問題であり、この時代に、この世界に、 及にもよらずに、さらに、いかなる排他的な社会的 この社会に、この地域に、この家系の中で、この親 プロトタイプにもよらずに、こうして生きている自 のもと、この家族の中で、男として女として、この 分への納得感、自信を得ることが可能だろうか、と 身体をもって、様々な性格的特徴を持って、産まれ いう問題にも、つながっていくものである。 生きている人間であることは、なぜか?と問うても、 向こうの世界を想定して今生きている自分の生 簡単には、答えられない問題である。アイデンティ の意味を提示することは、強力である。そして、排 ティを、このような実存的視点で捉えると、自分が 他的に他者を排除することによって自分を肯定す こうして生きている自分であることを、いかにして ることも、強力である。しかし、竹田(1989)が現 納得して受け入れることができるだろうか、が問題 象学においてその現代社会における意義として強 となる。 調するように、そのどちらもが、この世で異なる他 この答えを提示するものとしては、 「宗教」がそ 者と共に生きることというルールに反している。 の役割を果たしてきたといえる。宗教は、向こうの 向こうの世界からの視点を持つことなく、生きる 世界、この世ではない世界から、説き起こし、個人 ことの意味をこの世界の中からくみ取ってくるこ が生きる意味を提示するものである。実存的視点で とができるだろうか。つまり、自分が自分であるこ 捉えた、自分がこうして生きている自分であること とについて納得することのできる、基準を、見方を、 の宿命、縁を問いかけることは、宗教の領域、向こ この世界の中から見つけていくことができるだろ うの世界の領域をもって明確に答えることができ うか。 る問題である。 筆者が居場所という言葉に注目する理由の一つ に、現実というこの世界において、生きている自分 (2) この世という、日常生活の中で、アイデン ティティの根幹に関わる問いについて、い かに答えていくか が活動している場所、居場所という見方をすること この問題について、サッカーのルールにたとえて 準を持ち、さらに、自分が自分であることを納得で 考えてみる。サッカーという競技では、キーパー以 きる体験を居場所においてすることができるか、が 外、スローインのとき以外は、手を使ってはいけな 問題となっているといえる。 によって、そこからいかなる生きることの意味を、 自分が自分であることを納得することのできる基 い。当然手を使った方が、相手のゴールにボールを このことは、居場所という見方をすることによっ 入れやすい。しかし、この限定があるからこそ、サ て、限定されてこの世界において、この世界をよく ッーという競技は面白い。さらに、限定があるか 見ることができる。つまり、足しか使わない、手を らこそ、ボールを蹴るという技術が発展していく。 使わないという限定をすることによって足の技術 つまり、限定があってこその面白さや意味があると は発達する。同様に、この世界に限定することによ いえる。 って、居場所という見方において、この世界を自分 同様に、この世に限定して考えるからこそ、答え がこの世界において生きていることを、じっくりと を出す際の難しさは増すと同時に、この世で自分が 見ることができる。さらに、このようなことができ 居場所を得ることから自らのアイデンティティをもつこと 73 れば、向こうの世界を想定することが、この世界に 観について、取り立てて挙げるような確固としても おいていかなる意味があるのかが明らかになり、信 のを見つけにくくなっているといえる。とりあえず、 仰を持つ者においても持たない者においても、この 食べていくこと以外に、何が大切かわからないし、 世に限定する見方は意義が生じるといえる。 楽しいこともそこそこあるし、という日常生活の感 覚が、一般的ではないだろうか。 (3) 現代社会の問題 エリクソンは、文化人類学的研究によって、スー このように見ていくと、多くの日本における現代 人においては、アイデンティティが問題になること 族インディアン(アメリカ先住民族、ネイティヴィ もなく、アイデンティティ危機に陥ることもなく、 アメリカン)においては、彼らの社会的プロトタイ 日常生活においては生きていっているのが、現状で プは、小さく確固としているとしていると述べる。 あるということができる。日常生活においては、心 これに対して、我々の現代社会においては、社会的 理社会的価値観が露わに問題となることもなけれ プロトタイプは、流動的で派閥化し相互に矛盾する ば、アイデンティティ危機の生じることはない。こ ものとなっているとしている(Erikson,1959)。 のような現状があることをこれまで示してきた。と 社会的プロトタイプという、社会的規範のような ころで、排他的な社会的プロトタイプ以外には力の ものは、現代において、影響力があるものなのだろ あるものはなく、確固とした心理社会的価値観も無 うか。つまり、差別や偏見という、外圧的に、個人 化されていく、このようなことが現状であるといえ に押しつける形態における、社会的プロトタイプは、 る。 いまだ個人に影響を与えている。しかし、それ以外 青年期のアイデンティティ危機において問題と の、強い力を持つ、社会的プロトタイプ、心理社会 なる、大人として納得のいく自分になりたいという 的価値観は何があるだろうか。 思いは、「一人前の大人になりたい」「子どもの自 個人、この自分というものは、現代社会の中で、 消費者として、その欲求を最大限満足してよいとさ れる立場にいる。つまり、苦しい生活と快適な生活 の対比の中で、快適さを追求できる、商品を買う立 分ではありたくない」という大人像が根底にあって 生じるものであるといえる。 エリクソンは、この点について、次のように述べ ている 場にいる。このように、個人の欲求の満足を、科学 技術の発展において、許されている。消費社会の中 アイデンティティという理論全体のものが、過 で、快適さを追求し、メディアを通じて商品情報を 去の一時代、ひとかどの人物でありたいと人々が願 受け取り、そこでも快を得て、消費することによっ った時代に密接に結びついていたものかもしれな て、経済活動に参加し、そのためのお金を得れば、 いのだ。 (Erikson, 1973 近藤邦夫 訳 p165) 生活は事足りる。また、マスメディアによる「快」 や「お祭り」騒ぎは、商品の広告を見せるために、 大人と子どもの境界線を明確に引き、大人として 番組の視聴率を上げるために、必要とされているも 自分への成長を強く欲するからこそ、アイデンティ のといえる。このような、お祭り騒ぎにおいて、確 ティ、自分が自分であることを強く納得して受け入 固とした信念や価値観などは無化されてしまって れたいという思いが生じるのであるといえ、この前 いるといえる。様々な番組においては、単にお祭り 提がなくなれば、青年期において発達上でアイデン 騒ぎには終わらないものもあるといえるが、 「悪貨 ティティ危機が生じることはないのである。 は良貨を駆逐する」のことわざ通りに、影響力のあ るものは、 「悪貨」の方であるのではないか。 さて、このような現状において、アイデンティテ ィを問題にすることの意義は何か。それは、実存的 このように、現代社会においては、偏見や差別と 視点においてである。先に述べたように、自分が自 いった強力な社会的プロトタイプ以外は、マスメデ 分であることは、宿命、縁、実存に関する問題であ ィアの「お祭り騒ぎ」において、無化されている傾 る。生涯を通じて、このような自分として生きてい 向にあると考えられる。つまり、個人においては、 ること、生涯を送ることを納得して受け入れたいと 何が生きていく上で大切かという、心理社会的価値 いう思いに駆られることは、現代社会においても遭 74 東京工芸大学工学部紀要 Vol. 26 No.2(2003) 遇することはある。このような場合、自分が自分で そして、滝沢・広田(2003)は、教育に関わる問題 あることを納得して受け入れることのできる基準 を現象学の立場で考えていく上では、「当事者意 を、問い直すことは意義のあることであるといえる。 識」の重要性を指摘している。この点から考えると、 自分がこうして生きている自分であることを、自分 5. 今後の課題 自身の問題として、当事者意識を持って考えること の重要性と難しさがあると考えられる。さらにこの 本論は、アイデンティティを実存的視点で捉え考 察したものである。アイデンティティには様々な視 点があり、他の視点を否定するものではない。ただ、 こと以外にも、現象学的方法に至る問題点はあると 考えられる。 第三に、本論ではアイデンティティについての概 筆者は実存的視点で捉えることこそ、アイデンティ 念的検討に終始したが、アイデンティティが問題と ティという言葉にふさわしくかつ現代的な意義も なる場としての、居場所について明確にしていく必 あると考えている。 要がある。現実世界で自分が生きていること、つま 第一に、アイデンティティを自分が自分であるこ り、日常生活において、自分が持っているいくつか ととして捉え、そこには自分を納得して受け入れる の居場所から、アイデンティティを、言い換えると、 基準があるとする、問題となるのは、 「ありのま こうして生きている自分が人生を歩んでいること まの自分」 「そのままの自分」でいいのではないか を納得して受け入れることのできる実感をくみ取 という問いである。これは、ロジャースの言う「無 ってくるかが検討されるべきである。この点につい 条件の承認」(Rogers,1957)に関わることである。 ては、西平による全生活空間という見方との対比が 自分が自分であることの基準という見方をする 検討される必要がある(西平,1970)。 と、無条件の承認というのはありえないと言わざる そして、自分が自分であることの基準は、一人の を得ない。現実の世界で生きる中では、様々な基準 個人の中でいくつかあってそれが相互に関係して を持たざるをないのであり、様々な基準を持つこと いると考えられる。さらに、それに対応していくつ においては、無条件の承認と言うことはあり得ない かの居場所がゲシュタルトをなしていると考えら というのが現時点の筆者の見方である。そして、無 れ、このようなひとりの人間における居場所と自分 条件の肯定的配慮の対象とすべきものは、自分が自 が自分であることの基準の全体像を動きの中で、ダ 分であることを納得して受け入れたいという思い イナミズムとして描くことが、最終的な目標である。 であると考えられる。この点については、今後の検 本論はそのための概念的な検討にあたるものであ 討課題である。 る。 第二に、竹田の言うところの現象学的方法(1989) をより明確に提示することが必要である。日常生活 から、自分が自分であることの納得感を得ることを 引用文献 考えると、この世界で生きていること、当たり前に 生きていることを、平凡な生活をより感覚をとぎす まして見つめる方法として、自己理解につながるも Erikson,E.H. 1959 Psychological Iss...
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